石川建築賞受賞記念
ワトソンハウス仮想内見会

俯瞰 外観
玄関前庭 玄関ホール
1〜2階 階段 2〜3階 階段
2階応接 中庭(バスコートから)
中庭(2階洋室から) 2階洋室(中庭から)
スタジオ 2階廊下
洗面・浴室 3階
食堂
居間
寝室前廊下 寝室(和)
寝室(洋)
テラス


◇◇石川建築賞 応募用原稿 施工者分

1.たとえば「光の教会」のように(営業日報から)

「ほんとに、お金ないの?」
「ほんとに、ない」
「それは、ええもんが建つかもしれん」
−<光の教会 安藤忠雄の現場> 平松剛(建築資料研究社)−

私たち建築施工業者にとって、真っ先に立ち向かわなければならない問題。
此の頃の建設業界において、それはいつだって「価格」の問題である。

これはもちろん「もっと予算をいただけるのなら、我々だっていいものを建てたいの だが」といった言い訳ではない。
与えられた予算の中で、最大限「良いもの」を作ろうとする姿勢を見せるという業者 の「良心」の問題ですらない。

たとえば「光の教会」の場合のように
施主に「予算」があり、設計者に「意図」があり、それがぶつかり合うところに発生 する「価格」の壁であれば
施工業者も交えたお互いの「信頼」という「幸せな出会い」により、乗り越え可能で あるのかもしれない。
(最終的に施工業者は倒産の憂き目に合う定めにあったとしても・・・)

しかし、競争見積もり合わせというスタイルを取ることが一般的な、最近の経済情勢 のなかでは
私たちが乗り越えねばならない「価格」の壁は、ライバル業者の「提示価格」という 壁なのであり
いわば「見えない壁」を乗り越えない限り、どんなに参加したくとも参加する資格す ら得られないことになる。

そして、幸いにも参加することができた、今回のこの計画が、特に予算的に厳しかっ たというわけではないが
様々な施工上の、ということはつまりは、予算上の問題点(無理難題?)を克服して いく過程の中で
「見積もり合わせ」といういわば「不幸な出会い」を乗り越え、「信頼」という「幸 せな出会い」に塗り替えていく作業こそが
「ものづくり」に携わるものに突きつけられた、最大の課題であることを、私たちは 再確認することとなった。

2.砂の上のロビンソン(工事日誌から)

「土方が来ない!会社へ電話しても誰も出ない!」

奥行き(12m)に比して間口(28m)が極端に広いこの敷地で 私たちが初っ端に遭遇した難工事は「埋め戻し」であった。
内灘砂丘の傾斜地に建つという特性を最大限に活用した3階建てのこの家は 必然的に1階のほとんどが土に埋まることになる。
敷地を前面道路のレベルまで総掘りして、1階の躯体を仕上げた後 車庫・玄関の部分以外は、巨大な水槽に水を注ぐように、土で埋め戻す。
そして、作業開始予定当日。なんと、予定していた協力下請業者が破綻。
ベルトコンベアで2階レベルまで土を上げ、流し込む作業は 当社若手社員総出の「決死のバケツリレー」となった。

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1,2階が鉄筋コンクリート造、3階が木造の「混構造」というこの家は
2階の分厚いコンクリートの箱に内包された「重い」「閉じた空間」と
3階の、今にも飛翔せんとする屋根と それをなんとかつなぎとめている木造の架構とによって構成された 「軽い」「開かれた空間」との対比にその特徴がある。

しかし、実際に「軽い」ということと「軽く見える」ということの違いは、施工上大 差なのであって
この住宅の施工上の見せ場のほとんどは、「いかに軽く見せるか?」ということに言 い尽くされる。

サッシュは言うに及ばず、間仕切り、手摺、家具における「ガラス」(軽そうに見え て実に重い)の多用は
安易な取付け方を認めない設計者の下では、施工上の工夫を強いることになる。
(段板のみの階段の納まりや、総パテ下地のAEP塗りにしても、軽く見せるため の、実に重い施工方法であった。)

河北潟を見晴るかす、眺望抜群の展望台のような3階の、その「空気」の限りなく澄 み切った透明感は
そうした工夫の集大成にもかかわらず、それを意識させない配慮の賜物というべきも のなのである。

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「砂の上のロビンソン」は
憧れのマイホームを手に入れるために、住宅展示場で「擬似家族」を演じることに なった家族が
演じることで壊れかけた家族の絆を、演じることをやめることで取り戻していくス トーリィーであったように記憶する。

「家をつくる」という行為は「施工者」にとっても(もちろん設計者にとっても) 「擬似家族」を演じるに近い行為であるように思う。
つまり「家をつくる」ということは、その家で実際に「家族をする」ことを思い描き ながら進められている
或いは進められるべきだと思うのである。

そして引渡しが終わったあとは、施主が当然のことながら、私たちとはまた違った解 釈で「家族をする」。
そのようにして、三者三様の解釈で「家族をする」ことができた時、
そのような計画に参加できたことを「幸せな出会い」というのではあるまいか?

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